どもサピパパです。
よよかさん日本を去る。なぜ?
天才ドラマーのよよかさんが日本の学校に通った経験から、日本の学校教育が自分には合わないとおっしゃっています。
天才ドラマーよよかさん(12)が日本を去るワケ〜「学校は答えを最初から決めている」
誤解のないようにお伝えすると、よよかさんは日本の学校教育が悪い、とは言っていません。
自分には合わない、という意見&行動で海外でスクーリングされることになったとのこと。
2022年8月、よよかさんのクラウドファンディング、大成功だったみたいです。
目標金額500万円のところ、約1,250万円も集めています。
クラウドファンディングは運営会社側に大体30%を渡し、残りが取り分となりますが、それでも875万円残ります。
875万円のうち、350万円をロサンゼルスでの初期活動資金とする一方、ストレッチ目標も達成しているので、残りの500万円強でソロアルバムも作るということのようです。
さて、話を戻しまして、
よよかさんの指摘した点は、もっともなところばかりですが、どうしてそうなってしまうのか。
ひとつひとつ学校側の事情も考えてみました。
日本の学校教育で指摘された点
よよかさんの指摘点を見ていきましょう。
1つの答えが最初から決まっている
- 音楽の授業では、正確に演奏することを求められ、アレンジが入れられない。
- 道徳の授業では、児童の意見がいくつも出るが、教師が求める答えに導きこうとする。
組み立て授業の限界でしょうか。
音楽であれ、道徳であれ、授業の前に、教師側は学習到達の目標を決めて、授業を組み立てます。
これが、教師が求める答えに集団を導こうとする理由と思います。
到達したい目標があるので、そこに向かって教えるという操作が出てくるのです。
また、その目標に到達するまでの授業時間も決められており、いつまでも子どもに自由な行動、発言、発想の時間を与えるわけにはいきません。
音楽の授業での楽器の演奏も、説明できます。
学習到達度を評価するためには、指標が必要です。
コンクールとコンサートの違いと言ったら分かりやすいでしょうか。
コンクールでは他の演奏者と競い合うため、正確性という指標があるのではないでしょうか。
楽譜のまま正確に演奏できているか。
他方、コンサートでは自由に演奏していい訳です。聴きに来ている人は、その方の演奏が聴きたいわけですから、逆に正確に演奏することは求められていません。
そもそも、小学校の道徳の授業で、答えのないようなディスカッションが必要な問題は出てこないと思います。
教科書には、対になる教師側の教科書があり、そこには模範解答が書いてあります。
限られた時間内で児童に考えさせつつ、意見が散り始めたら、教師が収束させ、ある方向に導いていく。
「アメリカ人と演奏していると、色を自由に塗ることができる感じがします。日本での演奏は、まるで塗り絵をはみださないように描くよう求められている気がします」。日本だと点数を付けられ、100点満点を求められる気分になってしまうそうです。
テレ朝ニュース
自由な授業もあるにはある
日本の学校教育は、そういう面が間違いなくありますね。
ただ、日本にもそうでない授業があります。
成績に関係ない授業時間です。
たとえば、お楽しみ会では、楽器の演奏も自由にやっていいはずです。
そういう時間を確保するためにも、教師は、他で授業時間を守ってやっているんですね。
そこをうまくやらないと、児童に「意見を強引にこっちに持っていこうとしているな」と、ばれてしまうのでしょうね。
日本の学校教育にフィットした子どもは、教師の求める答えを言ってくれます。
そういう子は、教師のひいきの子になったりします。
月に1回くらい、子どもが大人に教える授業があったらいいなと思います
よよかさんがおっしゃった意見です。
根本に立ち戻ると、小学校の教師は、児童の成績を上げることに最大の目標があります。
ただ、(私立を除いて)小学校の児童は、様々なレベルの子が混在しています。
知的レベルがバラバラです。
芸術に対するレベルもバラバラです。
このような子どもたちの全員が満足するような教育。
そして、保護者が満足するような教育。
教育委員会が満足するような教育。
文科省が満足するような教育。
たとえば、すべての保護者が児童の個性を伸ばすことを第一目標に置くよう学校に求めているでしょうか。
学期の終わりに出る成績に一喜一憂している日本の保護者が、あなたには○○があるから、そこを伸ばしていくことが大事!と子どもに伝えているでしょうか。
今からアメリカの真似をしたって勝てません。たぶん。
日本は日本のやり方をとことん追求していって、世界でも独自の地位を築いて欲しいです。
世界で見た場合、それが日本のユニークな点であり、個性になると思います。
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